有限会社岡野自動車商会

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第6章

家業から企業へ、日本から世界への転換

(2009年~ 岡野功)

岡野 功について

・幼少期からの車好き

岡野功資の長男として昭和46年(1971年)に生まれた功は、幼少期より功資のレッカー車の横に乗り、あちこちのモータースやディーラーからの廃車の引き取りについてまわるのが好きだった。小学高学年になると内燃機関の仕組みなどに興味を持ち、それに関連した本を片っ端から読んでは、わからないところを父親に聞いていた。
当時、実家の裏山にはモトクロスをしに来る大人が大勢いて、功は4万円でプロテクターなどの装備一式を譲ってもらい、オートバイを乗り回すようになった。京都の龍谷大学へ進学するとドリフト走行に興味を持ち、ディーラーから入庫した解体予定のAE86トレノを手に入れて峠を走りに行く毎日であった。

小学生の時に功が読んだ本

・大学中退からトラック運転手を経て父の会社へ

車の部品代を捻出するためアルバイトに明け暮れては、夜中になるとそのアルバイト代をつぎ込んだ車で峠道を走る毎日だったが、もっと稼いで本格的に走りたいと、2年生の途中で大学を中退してしまった。
伊勢に戻り父の紹介でトラックの運転手をしていたが、ある日、勤続20年の先輩社員と自分が同じ給料なのを知る。違う仕事を探そうと思っていた矢先、父と居酒屋で飲んだ折りにその話をすると、「儲けはないが、することはたくさんあるから来ないか?」と誘われ、車に携われるならと快諾した。
実際にそれまで岡野自動車商会で働く事は全く考えた事がなかった。

・母を悲観させた会社の業績

それを聞いた母は悲観し、「あんな会社に入ってどうするの! 若いうちは分からないかもしれないけど、ずっと働く会社ではないから、ちゃんと考えな」と諭した。
功は後になるまで知らなかったが、父の給与は収入証明書を見せるだけで、最も好条件の奨学金を借りられるほど低く、母親はずいぶん苦労していたようである。しかも、当時社長だった功資の兄・兼祐がいずれ娘婿に跡を継がせるであろう会社。そんなところに就職しても、何もいいことはないと、功の将来を母は心配したのである。

・自宅が会社を継続させるための担保に。

平成17年(2005年)、自動車リサイクル法が施行されることとなり、この先も解体業を続けるために大きな借入をして設備投資する必要に迫られる。借入をしようにも、銀行は「後継者候補のいない状態では融資できない」という。この問題をクリアするための方法が、功を専務に就任させることだった。そして同時に、建てたばかりの功の自宅は、何億円もの融資の担保に入れられた。「これはまずいことになった」というのが正直な気持ちだった。

・「保険」としての新事業チャレンジ

功は、平成18年(2006年)、伊勢市から離れた三雲町に車買取店「車のデパート」をオープンするというチャレンジに出る。この買取店は、功個人で設立した。当時、社長は功の父の功資であったが、叔父で創業者である兼祐の娘婿が継ぎ、自分が会社を追われたときの保険と考えてのことだった。しかしうまくいかず事業は1年で撤退する。

・経営は功資へ、そして功へ

これらのできごとを経て、平成20年(2008年)、8月まで元気にゴルフをしていたほどの兼祐が、秋には肺がんで余命数カ月と宣告される。死去の前に、10年間は兼祐家の家族を金銭的に守ることを条件に、すべての株を弟の功資一族に譲ることとなり、会社は実質的に功資一族の所有となったのである。
平成21(2009)年まで功資は代表取締役を務め、その後は功が跡を継ぎ、現在に至る。
平成21年(2009年)

中古車の海外輸出をスタート

この年、功が代表取締役に就任。解体にとどまらない自動車関連事業の模索を始める。そのひとつが、Webサイトを利用して車を海外に販売する、自力での中古車輸出だ。
以後、約5年にわたり、翻訳ソフト等を使いながら英語のメールで商談し、ドバイを中心にアフリカ諸国、中南米などさまざまな国へアプローチをしたが、利益はオークション程度、顧客は海外の一見さんばかりだった。
そのなかで、ミャンマー人のエイミンとの取引は、10数台におよんだ。エイミンは取引当初から日本語の文章がうまく、感覚的にも日本人に近いものを持っていると功は感じた。結局、販売サイトを通じて複数台売った相手はエイミンだけだった。政情不安定なミャンマー側の事情により、1年で車の取引は終わるが、その後もエイミンとの間では、定期的に近況報告をする関係が続いた。
※エイミンと松下さんについて
1988年、ミャンマーで起こった「8888民主化運動」。旧軍事政権の独裁政治に対して反対の声を上げた人々は苛烈な弾圧を受け、民主化運動は頓挫。以降、多くのミャンマー人が「難民」として日本にやってくることになる。その多くは知識人で、現在ではミャンマーを支える人物となっている。このような事情から、ミャンマー人には親日家が多く、日本語を話す人も多い。
エイミンも1998年頃に難民として日本にやってきたひとりだ。世話をしたのは松下さん。今でもエイミンがお兄ちゃんと親しむ人物で、彼もまたミャンマーの魅力にはまって現在も日本との行き来をしており、功もミャンマーではいつも世話になっている人物だ。エイミンは、その後7~8年、日本でサウナの店番をしながら、毎日、新聞をすみずみまで読んで、日本語や文化、社会について勉強をしていた。

左から(松下さん、エイミン、功)
彼らはミャンマーでの事業を親身になって手助けしてくれた

平成22年(2010年)

ビッグウェーブからSPNへの移籍

昭和62年(1987年)にビッグウェーブに入会して四半世紀経過していたが、この間に後発の同業グループは成長しており、ビッグウェーブから移籍する企業も増えていた。ある日、社員から「ヤフオクとビッグウェーブの違いは何ですか」と聞かれた功は愕然とし、社員研修やグループ活動が活発なSPNに入会する。
平成23年(2011年)

ミャンマー人エイミンとの出会い

社員教育の充実したSPN入会による成果があらわれ、部品の生産や販売を社員にある程度任せられるようになると、功は他社との差別化につながる事業の柱を模索した。そこで注力したのが、平成21年(2009年)から始めた、インターネット経由での中古車輸出だ。この年には、ニュージーランドの会社へ事故現状車を専門に輸出した記録が残っている。
そして平成23年9月12日、近況報告などの交流を細々と続けていたエイミンから、「ミャンマーで中古車輸入が解禁される」との一報を受けた。さまざまな国で輸出の条件が変わると価格が急騰することも多くあると知っていた功は、「ここで損失を出すことを恐れて尻込みしていてはいけない。伸るか反るかはやってみないと分からない」と覚悟を決めて条件に合う車両を探し、10日で50台近くを仕入れた。
ところがその後、輸入条件が二転三転し、50台はほとんど輸出できずに終わるがエイミンは、現地で懸命に営業活動をしてくれた。そのおかげで現地企業との取引が始まり、一般にミャンマーの中古車輸入解禁は「2012年春から」とされるなかで、一足早い2011年初冬より車を送り始め、以後、大手輸出業者が体制を整えるまでの3年間は大きな利益を得ることができた。

功の商才が実を結んだ自社ブランドオイル

エイミンとは、メールのみのやりとりだったにもかかわらず、4カ月ほどで1,500万円ほどの中古車取引実績ができていた。初めてじかに会うのは、平成24年(2012年)2月のことである。
その後ミャンマーは中古車バブルの様相となり、功は2年ほどの間に10回以上訪問し現地に精通していった。そして「こんなビジネスはいつまでも続かない」と考え、「消耗品などの販売をしてはどうか」と提案。その過程で、「ミャンマーで独占販売できるエンジンオイルを探してほしい」と頼まれる。
興味深い申し出だったが、実績のない会社がオイルメーカーに「ミャンマーでオイルの独占販売をさせてくれ」と言えるわけがない。あれこれ思案していたところ、東京ビッグサイトの展示会で出会ったオイルメーカーにオリジナルオイルの製造コストを教えてもらった。あまりうまくいくようにも思えなったが、今までバブル的な中古車輸出で得た利益をある程度返金するつもりで腹を決めた。こうしてオリジナルオイル「OKANO LUBRICANT」が完成し、平成25年(2013年)発売を開始した。現在ではミャンマーを始め、モンゴル、台湾で本格販売、そのほか4カ国でスポット販売をしている。
ちなみに、「OKANO LUBRICANT」という商品名は、ミャンマー側から提案されたものだ。功からは「さくら」「富士山」「東京」といった、「メイド・イン・ジャパン」を印象づける名前を提案したが、日本製を匂わせる偽物の代表的な名前のようだと笑われて、採用されなかった。

現地パートナーが正直で誠実な方たちばかりであったのが最大の成功の理由であった

ミャンマーの代理店

モンゴルのパートナーと

平成25年(2013年)

本社移転の決断

このときまでは、国内向け部品は伊勢市船江で、海外向けの生産は平成17年(2005年)にできた玉城処理工場で行っていた。
2拠点の間の距離は4kmほど。しかし、品質基準の違う国内向けと海外向けを、同じ車両から異なる場所で生産するのは非常に難しかった。また、社員は21人いたが拠点が違う社員は年に1度の忘年会くらいしか顔を合わせる機会がなかった。このままではこれ以上の発展はないし、30年後も商売を続けているつもりならいつかは建て直しもしなければならないと考えた功は船江から玉城への本社移転を決意した。
移転を後押ししたのは、この2年間のミャンマーへの中古車輸出事業で得た大きな利益だった。平成24年には玉城処理工場に隣接する土地500坪を購入して、移転への準備を進めていた。決して会社の財務内容がいいとはいえなかったが、直近2年間の決算書を見て銀行も融資を認めた。
平成27年(2015年)

新社屋完成・本社移転

本社を現在地へ移転。全社員が互いの顔を見ながら働ける、新たな体制がスタートした。
新社屋が完成したものの、倉庫の配置に不備があったり、部品管理方法がいつまでも決まらないなど、移転後2年間は大赤字が続いた。元の本社を売却した6000万円はそのまま現金として残る予定だったが、すぐになくなってしまい、体制を立て直せたのは実に2年後だった。
そんな状況を察知し、リーダーシップを発揮して現場の立て直しに力を発揮したのは、後に部長となる森であった。森は平成17年(2005年)の玉城新工場発足時に、自動車専用解体機(ニブラ)のオペレーターとして採用した社員だ。当時は本社と離れていた玉城処理工場で、解体機に乗る一作業者だったにも関わらず、会社全体の事業をすばやく把握する広い視野を持っていた。数年後には本社の国内部品部門を任されるようになり、玉城処理工場との連携役にもなっていた。
森は会議や朝礼でもリーダーシップを発揮し、ネット販売の本格化、ビッグウェーブからSPNへのスムーズな移行などを成功させた。功が海外向けの新事業や本社移転計画といった、会社の将来につながる動きをしている間、本業である国内向け部品を発展させた功労者である。
平成28年(2016年)

三重トヨタ自動車株式会社の株を売却

戦後の清算として分け与えられた三重トヨタ自動車株式会社の株。実は功資はこの株の話をときどきしていたが、取得時期が戦後の混乱期のことであり、実在するものかどうか分からなかった。その所有者は、兼祐から妻の廸子へと移っていた。これを三重トヨタ自動車株式会社・竹林氏の依頼により、同社へと売却した。
令和6年(2024年)

森新社長体制へ

平成31年(2019年)12月、毎年の年度末に1年間の反省や来期の計画などを発表する定例会議の場で、功は「10年以内に社長を交代する」と発表する。自分はこの先、衰えていく一方であるし、会社が継続的に発展するには、10年後のことも考えなければならない。その思いから、「10年かけて複数の社員が経営に関われる能力を身に着け、自分がいなくても運営できる会社にしよう」と宣言したのである。
予定では、宣言通り10年でその体制を完成させる予定だったが、功は「宣言した以上は権限移譲をし、細かいことにはなるべく口を出さない」と心に決め、実行した。その結果、わずか2年ほどで、森部長が全体を把握し指示する体制が整ったのである。
「人には旬がある」と考えた功は、令和4年(2022年)12月の会議で、「来年には社長を交代する」と宣言。令和6年(2024年)1月の交代を予定している。
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