有限会社岡野自動車商会

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第4章

地域の解体屋から全国区の部品販売会社へ

(1987年~ 岡野功資)

昭和62年(1987年)9月

中古部品全国ネットワークのビッグウェーブに参画

鉄がますます儲からなくなったため、岡野自動車商会はこの時期、鉄くずの販売から遠ざかり、中古部品販売に特化していた。
ある日、同業のだるま商事(現:有限会社リサイクルパーツダルマ)を訪問した功資は、「部品の一覧表」と「手元にない部品でも翌日には手元に届く仕組み」を目の当たりにする。それが、だるま商事が参画していた「中古部品全国ネットワークのビッグウェーブ」のものであることを知り、即座に入会を決めたという。ビッグウェーブは、自動車解体業の各社が在庫を共有することで、いまその店にない部品でも入手できるようにするネットワーク。ビッグウェーブへの参画は、だるま商事には遅れをとったものの、業界の中ではかなり早いほうで、創立会員に次ぐ「サブチャーターメンバー」であった。
ちなみに鉄だが、この後、平成2年(1990年)にバブルが崩壊。バブル期に蓄えた市中の鉄鋼製品の総量は膨大であったため、余剰鉄屑は発生しつづけ、鉄スクラップ価格は下落の一途をたどった。平成10年(1998年)頃になると、廃車をする際にユーザーが引取業者に処分費を払う「逆有償」となる。
平成4年(1992年)

木造の事務所を1,100万円かけて新築

バブル崩壊当時、業績は低迷し、社員も減っていたが66㎡の事務所を新築する決断をした。
そこにはビッグウェーブの方針である、「事務所は銀行と同じくらいきれいに!」があった。中古部品の品質を向上させるためには、まず事務所環境を整える必要があるというのだ。それまでの事務所は、車のボディーを敷き詰めた上に建てた小屋のような建物で、一部は土間だった。しかし、ビッグウェーブ入会後、同業他社の事業所を訪問する機会が幾度となくあり、どこも驚くほどきれいな事務所だったことが功資の背中を押した。
功資によると、「当時、自社の倉庫は長靴でないと奥まで行けなかったが、訪問した会社は振袖でも歩けるくらいきれいで驚いた」そうだ。
平成5年(1993年)10月

功資の子・岡野功が入社

当時の社員は社長の兼祐、専務の功資、フロント1名、解体現場1名の計4人。9月に経理1名、10月に功が入社した。年間売上は5000万円ほどだった。
当時22歳の功は、会社の業績や将来の見込みは何も分からなかったが、とにかく、社内に大量の「処分にお金がかかるもの」があふれていることが目についた。というのも、この10年ほど部品販売に力を入れたが、古参の社員には売る気があまりなく空回り。しかし、バブルの影響でディーラーからの入庫はしっかりあったため、値段が安い鉄でもとにかく販売すれば、数少ない社員分くらいの採算はどうにかとれたのだ。
だが、その副産物として、処分費のかかる廃タイヤは本社にも玉城の廃車置き場にも何千本と積み上げられていた。また、壊れてしまったソフトプレス機や、台風で倒壊したガソリン保管場所、何十年分ものガラス屑とオイルの混じった解体場など、費用のかかりそうなものはすべて修理も処分もされず、放置されたままであった。

すでにある経営資源をフル活用するための地道な努力

さらに、現在ほどIT化が進んでいなかった当時、せっかくのビッグウェーブの在庫共有化システムも、あまり活用されていなかった。部品を探す場合は全国各社が互いにFAXで問い合わせるやり方が主流で、多い日には1000枚ものFAXが届いた。
功は、自動車の解体と、FAXへの回答、部品の梱包・発送を、がむしゃらに行って売上を伸ばした。一方で、先のことを考え、在庫をシステムに入力する作業を地道に行った。その効果はすぐにあらわれ、利益もついてきた。何千本もの廃タイヤの処分や、新入社員の採用も提案した。経営のことは、いっさい分からなかったが、売上を伸ばし、不要なものを処分して改善していくのは功にとっては楽しく、必然的に状況は毎年よくなっていった。
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