有限会社岡野自動車商会

リボーン・カーリース
リボーン・レンタカー
お気軽にお電話ください。0120-24-2547
お気軽にお電話ください。0120-24-2547

第5章

自動車リサイクル法施行による巨額の投資

(2001年~)

平成11年(1999年)

功資が代表取締役に就任

兼祐と功資は男兄弟の中でも一番上と下で、14歳も歳が違い、兼祐72歳・功資58歳であった。
2人にどのような話し合いがあったか分からないが、功が見る限り会社のことは功資がいろいろと決めていたようであったし、兼祐が仕事の事で口出しをしたことは見た事がなかった。兼祐は娘婿に継がせる心づもりはあったかもしれないが、当面の社長は弟の功資が継いだ方がいいと考えていたのかもしれない。
この時の社員は役員を入れて8人、売上9900万円、借入金は1億2,000万円であった。
平成12年(2000年)

部品の輸出を始める

この頃、岡野自動車商会は部品をビッグウェーブを通して同業社にと、地元の修理業者などにしか販売していなかったが、それまで鉄くずにしかならなかった物を海外に向けて出荷し始めた。後から振り返ると、多くの同業者がそのようなことをして、厳しい時期をしのいでいたことが分かった。
平成13年(2001年)

三重県からの要請で団体を設立

鉄の価格が上がらず、自動車解体が儲からない時代が続いた。業者にも厳しいが、ユーザーにとっても、車の引き取りが逆有償、つまりお金を払って引き取ってもらわねばならなかった。そのため、山間部などに不法に放置するケースが増え、大きな社会問題となっていた。当時、自動車リサイクルに関する法律はまだなく、業者が不適切な処理を行っていたとしても、行政は指導することができなかった。
このような背景のもと、国では自動車リサイクル法の制定に向けた動きが始まり、それに先立ち三重県から岡野自動車商会に「三重県自動車リサイクル協議会設立」の相談が持ちかけられた。功資は、県内の解体業者に声をかけて協議会を発足させ、自ら会長を務めた。入会企業は約30社にのぼった。
平成14年(2002年)

自動車リサイクル法が制定

この年、自動車リサイクル法が制定され、3年後の平成17年(2005年)1月に完全施行となることが発表された。
実はこのときまで「自動車解体業」という業種は認定されておらず、そのため自動車解体を行う業者は、産業廃棄物業と混同されたまま各事業者のモラルによって事業を行っていた。法律上は、昭和初期に季武が道端でオイルを垂れ流していた時代と、なんら変わっていなかったのである。
※廃車をとりまく当時の社会状況
当時、廃車については、タダかもしくは数千円程度の料金をもらって車両を引き取り、鉄などの素材を売っても数千円程度にしかならない図式であった。中古部品販売が見込める車以外は利益にはならないため、玉城町の車両置き場には柵もなく、多数の廃車は台数の管理もされず、1台、2台盗まれても気づかないような状態であった。
自動車リサイクル法施行までは、国の管理体制も同様で、登録を一時抹消された車の管理はされていなかった。中古車として店頭に並んでいるのも、何十年も前に解体されているのも、海外に輸出された車も、だれも把握できない状態であった。
平成15年(2003年)

功を専務になった事情

現代表取締役である功が31歳で専務取締役となったのは、平成15年(2003年)6月のことだ。
当時、自動車リサイクル法という法律ができることによって、大資本の異業種が大規模な参入表明をするケースが多く見られた。「解体業」の許可だけでなく、自動車専用解体機のニブラやプレス機を導入し、「破砕業」の許可も取得しなければ生き残れないという見方が一般的になっていた。そこで社長の功資は、玉城町の車両置き場に、すべての要件を満たした玉城処理工場を建設することを決断した。
ところが、当時の会社の状況は売上1億円を達成したばかりで、借入金は1億3000万円。これに対し、許可を取るため新たな借り入れは5700万円。銀行から融資を受けるにあたって、保証人として兼祐と功資だけでなく、後継者候補として若い保証人も求められたようである。そこで兼祐の甥で功資の子にあたる功を、専務取締役に昇格させ、さらに、詳細な経営計画書を添えて、ようやく借入が認められたのだった。
当時、功は決算書を見ることはあったが、それらの数字を読み解くことはできなかった。しかし売上よりも借入が多いことは理解できたし、銀行から借りるためだけに予測数字を無理に合わせた計画書を作りながら大きな不安を抱いた。なによりも、実家だけでなく、建てたばかりの自分の家を担保に入れる必要があり、「会社が立ちゆかなくなったら、親子ともども路頭に迷うのか」という不安が大きかった。しかしその頃から、会社の経営的な数字を気にするようになり、もしかしたら自分が社長になるのかもしれないと初めて意識したという。
平成17年(2005年)1月

プレス機とニブラを備えた処理工場が完成

玉城処理工場建設資金の借入開始から、計画、建設までに約2年をかけ、工場は完成した。売上が1億400万円、借入が2億600万円での厳しいスタートであったが、大手企業が参入を宣言していたこともあり、設備投資をしなければ生き残れないという危機感がまさってのことだった。
「引取業」「フロン類回収業」「解体業」「破砕業」の全ての許可を取得し大手と同じ立場で一貫して解体業を担う体制は整ったものの、数年間は従来のような許可のない業者の営業も、期限つきとはいえ認められていた。そのため融資を受けてから設備ができ、軌道に乗るまでの5年ほどは非常に厳しい経営状況であった。売上に見合わない大きな投資をした岡野自動車商会は、ギリギリの経営状態であったが、最終的には淘汰が進み、伊勢エリアだけで7~8社あったものが、法律施行後5年ほど経つと、実質的に岡野自動車商会1社になった。
平成20年(2008年)

激動の状況のなか着実な成長を確信

平成13年(2001年)から平成19年(2007年)までの間は、三重県自動車リサイクル協議会設立に始まり、自動車リサイクル法施行、新工場建設と、大きな動きがあり、投資も大きかった。一方で新たな売上も多く、総じて見れば会社としては順調に成長していた。平成13年(2001年)頃から始めた部品の輸出と、国内部品販売を、効率よく織り交ぜながら、新工場の完成後は破砕業として自動車プレスの販売も収入の柱となった。社員数も役員を入れて6人だったのが、17年11人、18年13人、19年15人、22年18人、25年21人、30年23人へと増えていった。

兼祐から功資一族へ

そんなさなかの平成20年(2008年)9月、会長の兼祐が体の不調で入院し、末期の肺がんと判明する。前月の8月にはゴルフをするほど元気であったのが、年内もたないとのことだった。
余命数カ月を宣告された兼祐は、銀行の連帯保証人をすべて抜け、残された兼祐の家族を金銭面でサポートすることを条件に、兼祐の持つ会社の株式をすべて功資一族に渡した。
先にも述べたように、玉城町の新工場完成以降は会社が順調に成長しており、家業から企業へもう一段の成長が始まった時期だった。当時、社長だった功資は経営に疎く、功がすることに対して口を出すこともなかった。兼祐の死後、平成21年(2009年)には、功が代表取締役に就任した。
JDM-Parts.co.nz
JDM-CARS.co.nz
JARA
ELV三重日本ELVリサイクル機構三重
COPYRIGHT© OKANO JIDOUSHA CO.,LTD ALL RIGHTS RESERVED.