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第2章

ボロ問屋としての創業と成長、そして危機

(1907年~ 岡野兼松とその娘・はる、夫・季武)

明治40年(1907年)頃

襤褸(ボロ)問屋「カネカ岡野商店」を創業

それ以前にも何らかの商売をしていたのかもしれないが、兼松が商売を始めたことが記録でたしかめられるのは、日露戦争後の明治40年(1907年)より以前、54歳の頃に始めた金属回収業の「カネカ岡野商店」である。
ちなみにその後、大正元年(1912年)の消印、「襤褸(ぼろ)問屋 カネカ岡野商店」のスタンプが押されたハガキが残されている。「先日の見積はいかがでしょうか?」と伺いを立てる内容が書かれているが、なぜ投函されず差出人の手元にあるのかは不明である。のちに孫の功資が聞いた話では、布切れの売値が日給よりも高かったようで、金属回収業というより、スタンプの肩書きの通り、まさにボロ問屋と言っていい商売だったのかもしれない。
大正7年(1918年)

兼松の娘・はると季武(すえたけ)が結婚

兼松65歳の当時、17歳だった娘のはるは、服部季武と結婚。季武は、伊賀にある兼松の本家の向かいに住んでいた少年で、いつからかカネカ岡野商店に丁稚奉公したのが縁で、その後、岡野兼松と養子縁組を結び、はるの夫となったのだ。季武は明治29年(1896年)生まれで、当時20歳だった。
はるはのちに、4男6女を授かる。そのうち長男・次男・三男の3人の男子と、次女の夫が、やがて岡野家の商売を発展させることになる。
長女
生まれてすぐに死去
次女
志げ子:大正11年(1922年)年生まれ
家業の切り盛りで忙しいはるに代わって、子どもの頃から妹・弟たちの面倒をみていた。
近所の氷会社で働いていた山究軍次(やまぎわぐんじ)と結婚。その後、軍次の転勤で鈴鹿へ移るが、季武が亡くなった数年後、軍次はカネカ岡野商店に入社する。
三女
長男
兼祐(かねすけ):昭和2年(1927年)年生まれ
昭和37年(1962年)、35歳のときに有限会社岡野自動車商会を設立する。
次男
稔(みのる)
兄が設立した有限会社岡野自動車商会に長く勤務し商売を手助けする。
四女
三男
五女
六女
四男
功資(こうし):昭和16(1941)年生まれ
兼祐が設立した有限会社岡野自動車商会を、平成11(1999)年、代表取締役として引き継ぐ。
昭和10年(1935年)

季武、自動車および船の解体業をはじめる

大正後期、兼松が亡くなるとカネカ岡野商店の経営は、はるの夫の季武が継いだ。この時期になると、長崎や横浜、金沢の港へ出向いて船を解体し、現地で鉄屑や部品の販売を行っていたようだ。伊勢から頼りになる番頭さんを伴って行き、現地でも日雇いの解体作業員を雇っていたらしい。
船にバラスト(バランスをとるための重し)がついていると、鉛が回収できるので「大当たり」。その代わり、「外れ」もあったが、昭和12年(1937年)の日中戦争で日本の雲行きが怪しくなってくるまでの約2年で、事業拡大に成功したようだ。
昭和13~20年(1938~1945年)頃

太平洋戦争により商売が制約を受ける

昭和16年(1941年)に太平洋戦争がはじまると、戦時統制が強化され、すべての産業や労働力が国家の統制下におかれた。この地域でも、三重トヨタをはじめ鉄に関わりのある民営企業は、国の統制のもとで整理・統合が行われ、カネカ岡野商店もその中に組み込まれた。鉄を自由に売り買いすることは許されない。商売は暗黒時代へ突入した。

空襲で自宅と倉庫2棟を失う

昭和20年(1945年)には空襲に見舞われ、さらなる苦境が襲う。自宅と倉庫2棟が全焼したのだ。当時は、戦況が厳しくなるとともに、家庭の鍋から寺の鐘まで、ありとあらゆる鉄を国に差し出すよう命令が下された時期。しかしカネカ岡野商店は、倉庫に自動車部品を隠しておいたようで、焼け跡からは赤さびた鉄の部品がたくさん出てきた。そのうちのいくらかは、軽油などで洗って再生することができたという。
同じ年、日本は終戦を迎えた。戦時中に組み込まれた会社が解散すると、カネカ岡野商店には、その存続会社である現・三重トヨタ自動車株式会社の株が譲渡された。
昭和21年(1946年)

季武が急性肺炎のため50歳で逝去

終戦の翌年、焼けた家の再建のため寝る間も惜しんで働きづめだった季武は、親元である伊賀の山へ木を伐りに行っているさなかに倒れた。過労がたたったと思われる。
このとき長男・兼祐は19歳、四男・功資はわずか5歳であった。幼くして父を亡くした功資は父親の思い出はほとんどなく、周囲に聞いた、「父・季武の膝の上に乗って、お猪口をちゅうちゅう吸っていた」という話が残るのみである。

はるのビジネスウーマンの才が目覚める

季武亡き後は、妻のはるが会社を切り盛りした。しっかり者で交渉ごともお手のもののはるは、天性のビジネスウーマンであった。三交整備工場、三重電興社などの新たな取引先に、銅線のくずを売ってほしいと粘り強く折衝し、取引開始にこぎつけた。
これには、やむをえない事情もあった。戦時中、千葉・習志野の軍需工場で働いていた長男・兼祐は、終戦後には伊勢へと戻ってきたが、身体を悪くして国立明星療養所に入院していたのだ。また、次男・稔は宇治山田商業高校の3年生、三男・忠生は中学生と、まだ子どもで頼りにならない。戦後の混乱した時代、はるは9人もの子をひとりで育てていかねばならず、必死だったのだろう。
四男・功資は、この頃以降の思い出がある。小学生低学年になると、母のはるから「外出する稔についていけ」と言われることが多く、「麗人座」というクラブでコマをまわして遊んでいた。小学校高学年時、はるが銅線くずの取引を始めると、取引先までリヤカーをひいて、くずの銅線を取りに行っていたという。また、空襲後そのままになっている空き地などで、薬莢や鉄くずを拾っては、はるの所へ持っていき、換金して近所の店で駄菓子を買ったという思い出話を、のちに息子の功に語っていた。
昭和23年(1948年)

倒産の危機

必死に家業を守ろうとしたはるだったが、順調にはいかなかったようである。功資は、家じゅうに国税局の差し押さえの赤紙が貼ってあった光景を覚えているという。
幸いにも大西石油さんや夏山さん(現・夏山金属株式会社と思われる)に助けてもらって、家や土地は差し押さえられず手元に残ったと功資は聞いている。
昭和28年(1953年)頃

志げ子の夫・軍次がカネカ岡野商店に入社

はるの次女・志げ子は、岡野家のすぐ近くにあった製氷会社(東海製氷)に勤めていた山究軍次と結婚。その後、軍次の転勤により、2人は鈴鹿で暮らしていた。当時、彼らには子どもがおらず、まだ小学生だった功資は、1カ月ほど鈴鹿に預けられたこともあった。
その後、はるは軍次にカネカ岡野商店を手伝ってくれるよう依頼。夫婦は宇治山田へ戻り、軍次はカネカ岡野商店に入社する。まじめで働き者、実直な軍次は、家業を大いに助けた。

長男・兼祐が病気治療を終え岡野家へ戻る

そしてちょうどこの頃、長く入院していたはるの長男・兼祐が退院し、戻ってきた。岡野家にとって、心強いできごとが続いた。
ただ、この倒産危機からこのあとの有限会社設立までの10年ほどの間、ちょうど日本が高度経済成長の活気にわいた時期、だれが代表をつとめ、会社がどのようにして持ち直したかは、明らかではない。ほとんどの期間、はるが切り盛りしていたと思われるが、のちに兼祐がはるに相談せず有限会社を設立したことから、途中からは兼祐が取り仕切っていたとも考えられる。
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