有限会社岡野自動車商会

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第3章

自動車に的を絞り法人設立

(1962年~ 岡野兼祐)

昭和37年(1962年)

兼祐が有限会社岡野自動車商会を設立

この年、35歳となる兼祐が代表取締役として、有限会社岡野自動車商会を設立。兼祐自身の出資と合わせて土地700坪の購入記録が残っている。また敷地の一部を志げ子夫婦に貸して住まわせた。会社設立、土地の取得に加え、新たに工場と倉庫の建設を立て続けに行ったことで税務署の監査が入り、戦前からの個人商店の清算として600万円ほど徴収された。

自動車解体業を専門に

それまでのカネカ岡野商店時代は、自動車を主として扱っていたものの、ほかにも金属や布など、さまざまなものを手広く扱っていた。それがこの時期になると、ほとんどが自動車解体になっていた。ディーラーから車を購入し、鉄くずと部品に分けて販売する商売だ。
法人化以前は、自宅と工場を合わせて200坪もなく、道端で解体作業を行っていた。三重定期という近くの運送会社がトラックを5~6台まとめて持ち込み、道端にずらりと並んでいたこともある。重いエンジンを降ろす作業も、リフトがなく人力での作業だった。
設立当初は総勢7~8人。兼祐と、母のはる、兼祐の義兄の軍次、稔、功資。家族以外にも若い社員を含め数名いた。この後しばらくは、同規模で事業を続けた。月100台ほどを処理するのに最適な人数であった。

外で自動車整備を学んだ末弟の功資

功資は18歳で高校を卒業すると、長谷川商店(現在は国の重要文化財に指定されている旧長谷川治郎兵衛家)に就職。初任給は8300円、社会保険70円を天引きされていたという。2カ月間の松阪勤務のあと、約2年間、東京の日本橋三丁目にあった支店に勤務。退職後に「これからは自動車の技術が必要」と考えた功資は、日本自動車学校(現・専門学校トヨタ東京自動車大学校)で自動車整備を学ぶことを決めた。同校には全国各地や海外からも応募があり、8~10倍の高倍率。岡野商店と取引があった三重トヨタの所長に、自ら頼み込んで推薦状をもらい18期生として入学したことから、功資の熱意がうかがえる。
聞いたこともなかったシャシダイナモメーターや、教育用の新車が用意されたなかで自動車に関する技術を学び、修学旅行は1週間にわたってトヨタ車体やトヨタテクニカルセンター(https://global.toyota/jp/company/profile/facilities/r-d/)などのトヨタ関連会社を見学。トヨタ直営ならではの充実した環境に驚いたという。

功資が営業マンとしての手腕を発揮

功資は卒業後、岡野自動車商会で働き始め、はじめの約10年は現場で自動車の解体などを手がけた。国家資格自動車整備士2級の資格も取得した。
しかし10年が過ぎたあとは、40年以上にわたり営業として手腕をふるった。昭和の時代、岡野自動車商会はおもにディーラーから車を仕入れて解体し、鉄屑と部品に分けて販売していた。そのディーラーを功資はよく接待していた。当時はいわゆる「鼻薬」がよく効き、ディーラーの中古車部長はエリートコースよりもいい家が建つと言われていた時代。功資はクーラーの壊れた古いスタウトというレッカー車に乗り、営業マン兼引き取りとして、儲かる車を安く仕入れ、たくさん入庫させていた。

スタウトのレッカー、中に乗っているのは幼少期の功(昭和51年前後)

昭和37~38年(1962~1963年)頃

埋め込み式プレス機購入

大量に出る鉄くずの処理効率を上げるため、3方向から鉄スクラップを押し固める、固定式のプレス機を購入した。岡野自動車商会初の、本格的な設備の導入だ。

平成28年本社移転後に旧本社作業場下から出てきたプレス機

昭和46年(1971年)

豊田メタル協力会に加盟

昭和40年代(1960年代後半)にマイカーブームを迎えると大衆車が普及。自動車は憧れのものから、多くの人が所有するものとなっていった。ちなみに国内の乗用車保有台数は、昭和41年の約228万台から、昭和50年には約1604万台へと急増している。
このような社会背景のなかで、当時、トヨタグループが掲げたスローガンは、「ゆりかごから墓場まで」。新車の製造・販売から修理、中古車販売、解体まで、グループで一貫して行う仕組みを構築しようとしていた。
昭和45年(1970年)に豊田メタルスクラップ株式会社が設立され、翌年の昭和46年(1971年)には、豊田メタル協力会が発足する。岡野自動車商会は、以前からトヨタとの付き合いがあったことからチャーターメンバーとなった。会員企業は、トヨタのディーラーから車を引き取り、解体した車体のプレスを豊田メタルに納める。つまり、トヨタグループの輪の中に入るということであった。
当時のチャーターメンバーは、愛知・岐阜・三重・静岡で約50社だった。
昭和49年(1974年)

玉城町の現在地に土地を購入

度会郡玉城町中楽の土地480坪を、小川木材からの依頼を受けて購入。決断した大きな要因は、ディーラーが多数並ぶ場所から近かったことである。のちの昭和60年には隣接する土地450坪を買い増し、その見込みどおり、ディーラーは廃車をこの場所まで運び込んでくれるようになり、扱い量は増えていった。
平成22年580坪、平成24年520坪を買い増して、現在の本社となる。
昭和50~55年(1979年~1980年)頃

ソフトプレス機を導入

昭和47年(1972年)、豊田メタルスクラップ株式会社(現・豊田メタル株式会社)でシュレッダー1号機が稼働を開始。昭和56年(1981年)には、シュレッダー2号機が稼働を開始した。
岡野自動車商会でプレス処理をして納入した廃車を、豊田メタルでシュレッダー処理することになる。そのためシュレッダーの機械が傷みやすい3方締めプレスではなく、ソフトプレスで納入する必要性が生じ、ソフトプレス機の購入を決定した。
昭和55~57年(1980~1982年)頃

アルミ溶解炉を導入

廃車から回収されるエンジンの中から純度の高いアルミを取り出すことができれば、より高値で買い取ってもらうことができる。そこで、アルミ溶解炉を購入することを決定。購入費用はおよそ500万円であった。
ところが、溶解炉でエンジンを溶かしてアルミを抽出する作業は、厳しい高温の中での作業となるうえ、1回行うごとに成分の分析が必要だった。おまけに溶解炉の故障も多く、わずか3年で稼働停止を決断した。
功資の子で5代目社長・功の自宅の庭には、現在もこのときの名残である、溶解炉の耐火煉瓦が敷かれている。
昭和58年(1983年)

はるが83歳で逝去

はるは、亡くなる直前まで元気で、会社にもよく顔を出していた。
その日は、雪の降るとても寒い日であった。朝から友人と伊勢神宮の内宮に参拝したはるは、帰宅後の夕方入浴に向かった。当時、自宅は建て替え中で、仮住まいの借家は、母屋の外に浴室があったのだ。はるは、湯を浴び母屋に戻る途中、心筋梗塞で亡くなった。いまで言うヒートショックだった。
まるでお伊勢さんにお参りし、自ら湯かんを終え、旅立つ準備をしていたかのようである。しっかりもののはるらしい最期であった。
はるは生前、会社の経営に対しても自分の考えを主張していた。社長の兼祐は、堅くて慎重、石橋を渡るタイプ。対して、母のはるは、なににでもダイナミックに挑戦するタイプと、正反対。思いどおりにならず、功資に「お前が社長をしろ」と思いをぶつけることもあったという。
一方で、家のことはほとんどせず、戦前は「ばあや」(家政婦)を雇っていた。また、戦後は次女の志げ子が、母親に変わって弟や妹を育てた。はるは生涯、ビジネスウーマンであった。

はるから功資に宛てた手紙

昭和60年(1985年)11月

部品倉庫の新設と土地の購入

写真は平成10年頃
と思われる

戦後より、同業者の中では部品を売ることに重点を置いた経営だったが、鉄の相場が下がり利益が出なくなっていた。そこで、中古部品の売上比率を増やす戦略へと舵を切ることにした。そのために兼祐と功資は大型の倉庫を建てる決意をし、また現本社となる土地の一部も購入した。
当時、自動車の中古部品といえば、引き取った廃車を野積みしてあるなかから、必要に応じてもぎ取ってくるスタイルが主流だった。そんな時代に1,000万円もの投資をして、当時の事務所前に2階建て360㎡の部品倉庫を設置し、より効率よく生産・保管するための体制をととのえたのだ。
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